C A R E E R 0 2 A K I R A M I T A N I

三谷 享

再処理事業部 再処理工場 技術部
2000年入社/工学研究科 原子核工学専攻(修士課程)

いつかの夢を、
原動力に

01自分の手で
工場を
動かしてみたい

原子力との出会いは図書館だった。子どもの頃から本が好きで、図書館で図鑑や小説などを読みふけっていた。小学生になり、算数や理科が好きになると、科学系の読み物も手に取るようになる。核融合に興味を持ったのは、高校1年生の時に読んだ科学雑誌がきっかけだった。膨大なエネルギーを生む原子力の技術は、まさに夢の技術。資源が限られた日本では、きっと役に立つはず。自分もその分野に携わりたいと思い、原子核工学科のある大学に進学した。

大学では原子炉工学やウラン濃縮など、原子力について広く学んだ。原子燃料サイクルもその一つ。日本では、それまで国の研究機関が原子燃料サイクルの研究を進めてきたが、当時、今まさに民間企業によって大規模な再処理工場が建設中であることを知る。それが日本原燃だった。卒業を控え、大学に残り研究をする道もあったが、どうせなら自分の手でその工場をつくり上げ、動かしてみたい。そんな想いから、日本原燃の門を叩くことにした。

入社した2000年は、再処理工場の建設最盛期であり、2001年から試運転として再処理工場での各種試験が行われる予定だった。学生時代に原子力を学んだものの、その知識がそのまま仕事で使えるわけではない。わからないことは指導員の先輩に聞けばよいのだが、最初は先輩が忙しそうに見え、中々声をかけることができなかった。

ある時、頼まれた仕事が進まず、締切間際になってようやく「実はよくわからなくて……」と切り出したことがあった。先輩は怒ることもなく「もっと早く教えてくれれば」と指導してくれたが、その冷静さが逆に「迷惑をかけてしまった」という後悔を募らせた。必要なタイミングで報告をすれば、先輩はある程度自由にこちらに任せてくれる。報告・連絡・相談の「報連相」は、自分も先輩も安心して仕事を進めるために、大切なことだと学んだ。

02目まぐるしい日々と、
充実した気持ち

入社後、配属されたのは分離施設課(現・分離課)だった。使用済燃料からウランやプルトニウムを取り出すには、せん断して硝酸に溶かし、有機溶媒を用いて抽出する。分離施設課は、そのウランとプルトニウムを抽出する施設「分離建屋」の設計・建設を担っていた。2001年に始まった分離建屋の試運転は着々と進み、最初は水や空気を通して装置の動きを見る「通水作動試験」が行われた。そこから「化学試験」「ウラン試験」と、徐々に本番の環境に近づけていく。全てが初めての経験だったため、試験の準備やデータ整理・評価などに時間がかかり、深夜まで残業が続くこともあった。

そして2005年、操業運転とほぼ同じ状態で行う「アクティブ試験」が始まった。実際の使用済燃料を用いて、目標通りにウランやプルトニウムを分離できるか、不要な成分をどれだけ除去できているかなど、様々な観点から細かくデータを取得しなければならない。私は主任として、担当設備の試験準備を進め、実際に機器を操作する運転員とのやりとりを行っていった。取得したデータは、工場に駐在していたフランス人やイギリス人の技術者に意見を仰ぎ、評価の妥当性の判断や、再試験の必要性などの議論を重ねる。体力的な疲れを感じることはあったが、一方で気持ちは充実していた。自分が携わった成果が、目に見えて現れることに、日々手応えを感じていたからだろう。

分離建屋のアクティブ試験が完了したのは2008年のこと。試運転の開始から7年の月日が過ぎていた。最終的な結果は国に報告され、稼働に向けて十分な性能を得られたことが承認された。操業はこれからだが、入社の動機であった「自分の手で工場を動かす」という夢に向かって、大きく前進したことが嬉しかった。

03そのプロセスに
根拠は
あるのか

操業に向けて準備が進められていた2009年、「高レベル廃液ガラス固化建屋」と呼ばれる施設でトラブルが発生した。高レベルの放射性廃液をガラス固化するための機器が設置されたセル(人の入らない小部屋)で、廃液が漏れてしまったのだ。廃液はセルや建屋の外には漏れておらず、周辺環境への影響はなかったが、再処理工場の管理体制が問われる事態となった。原因調査や報告の対応に人手が必要ということから、ガラス固化課へ応援に呼ばれ、そのまま異動することになる。

異動してまず担当したのは、原因調査だった。しかしその後は、会社の窓口として、国の規制機関とのやりとりを担当した。とはいえ、初めて携わる分野で、まずは自分自身が現象を理解しなければならない。原因を特定するため、セル内に設置されたカメラ映像や作業履歴、各種装置のパラメータ変化など、総合的な確認・調査が行われた。高レベル廃液は貯蔵タンクから伸びた配管の閉止フランジから漏れていた。換気設備で圧力の変動があったこと、閉止フランジの管理が適切でなかったことなど、複合的な要因で発生したトラブルだとわかった。

調査の過程や結果は国の規制機関に報告する。早期収束のため、東京に長期出張し、私ともう1名の先輩社員が報告をすることになった。報告業務は慣れていたつもりだったが、そこに甘さがあった。国の担当者が求めていたのは結果だけではなかったのだ。原因究明に至った過程だけでなく、その根拠として「なぜそう考えたのか」を徹底的に追求された。もし原因究明のプロセスに穴があり、他に考え得る要因を見逃せば、再び同じトラブルが起こりかねない。厳しい指摘が飛ぶのも当然だった。規制機関から指摘された内容を六ヶ所本社へと共有し、必要な追加調査を依頼する。本社から得た調査結果はすぐさま資料に反映し、次の日に再び報告する……そんな日々が、1ヶ月ほど続いた。

04理解してもらわねば
前に進めない

日頃からマラソンや水泳で鍛えていたおかげで、体力には自信があった。だが、なかなか収束しないトラブルに、精神的に追い詰められていたのもまた事実だった。その辛い状況の支えとなったのは、一緒に東京で報告業務を対応してくれた先輩社員と、追加調査の依頼にも「三谷がそう言うのなら」と応じてくれた関係部署の仲間、そしてメーカーの皆さんだった。東京にいるこちらの働きを信頼してくれている。だからこそ、その気持ちに応えたい。挫けそうになる度に、最後までやり遂げねばと、何度も気持ちを立て直した。

最終的にトラブルを収束させるまでには約2ヶ月を要した。この経験で学んだことは、再処理事業は理解があって成り立つということ。国に理解されないことは、一般の方々にも理解してもらえない。技術面や事業内容といった内向きの視点だけでなく、「自分たちは外からどう見られているか」を意識しなければ、納得してもらえる説明はできないのだ。これ以降は、日常業務においても「外からの視点」を意識するよう心がけている。

F U T U R E

過去から未来へ、経験をつなぐ

2021年4月からは、フランスのラ・アーグ再処理工場に駐在している。ラ・アーグ再処理工場は30年以上の運転実績があり、日本原燃が再処理工場を設計・運転する上でお手本としている施設だ。その運営ノウハウを学び、日本における再処理工場の安定操業に役立てるのが私に与えられたミッション。現地の工場運営は当然フランス語で行われており、当初は言葉の壁に悩まされたが、運営の内容を理解するにつれ、徐々に会話がつかめるようになってきた。

今回の駐在には、中堅社員1名も同行している。私が以前所属していた分離課に、試運転が完了した後に入社した社員だ。建設や試運転を経験していない彼に、当時の経験を伝えるのもまた私の役目。ただ、今はフランスの技術を吸収して、成長する彼の姿を見るのが嬉しく、見守っていたいと思う。

新人時代に痛感した「報連相」の大切さは、今でも「経験をつなぐ」というマインドとなって生きている。試運転の記憶を後進につなぎ、フランスでの経験を再処理工場の安定操業につなぐ。そうして未来はつくられていくのだろう。帰国後は、竣工を迎える工場に携わりたい。「自らの手で工場を動かす」という夢が、もうすぐ叶おうとしている。